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生きるという事は死ぬまでにこの世に生を受けた事の意味を探す旅

若者が苦労を買うかどうかは若者を買うかどうか

   

徒然と書いてみるシリーズ。

ここ最近ちっとも書かなかったのはいろいろと思うところもあり。簡単に言うならばオレなんかを監視してても面白くもないだろうにということ。他にはかなり衝撃的な事もあったので。

ここんとこの悩みのタネの一つ、人材。機材とかはどうにでもなる。人間が足りない。人手というよりは人材が足りなすぎる。誰と話をしても人が足りないという話になるのだけど、足りない分の人間はいったいどこで余っているのでしょうか。

自分が若い頃は買ってでも苦労したもんだ、みたいな話にはもうウンザリだ、苦労なんてわざわざしなくとも仕事は出来るようになる。なんて話を一時期見かけた事があって、まぁ確かにそういう所もあるよなぁとは感じたし、私はこんなコピーだの雑用するために社会人になったんじゃないという話とかを耳にしたりするじゃないですか。でもまぁそれって環境にもよるというか。その人の仕事によって違うよなぁと思う訳ですよね。

というか自分の業界ではやはり苦労や努力を重ねた人が成長し生き残っているという事実がある訳で。技術職、職人、そんな世界ではやはり若いうちに苦労を経験した方が確実にのびると思うんですよ。ただこの「苦労をしたほうが」という言葉にはものすごくたくさんの事が含まれているような気がしてならないんですけども、若いうちにたくさん失敗したとしても、それはまだまだ若いうちならば叱られてそして許される失敗だったりするわけで。そしてその失敗を教訓に成長するわけですよね。まさに子供が触ったら熱い事を知らずにやけどするようなもんで。そのやけどの度合いにもよるんでしょうけども。雑用だってそう。雑用をやらされてそれをしっかりこなしてやり遂げる事で次のステップアップの仕事をもらえるようになる、まかされるようになっていくじゃないですか。コピーとかくだらない仕事だと思われがちですけど、まともにコピーの機能を使いこなせない奴だっているわけで。頼まれたコピーをいかに効率よく手際よくやるかで、仕事をてきぱきとこなす姿と、コピー機という道具をきちんと使いこなせるという実力が垣間見えるわけですよね。

上司がきちんと評価してくれないとふてくされている姿とか見ていると、それってただのかまってちゃんじゃねえのかなぁとおもったりなんかして。なんかそういうの甘いよなぁとも思っちゃう訳です。ゆとりってやつですか?ゆとりなんて大人が勝手に作った物で自分たちはむしろ被害者的な事を言われるともうその考え方がゆとりだよなぁって思っちゃうし、ゆとり世代のなかでもきちんと努力している人がゆとりと呼ぶなと言うのはわかる。むしろそんなの気にしてない人は努力してたりする。世代がどうのこうのなんてのはいつの時代も繰り返す事だけど、でもなんだか努力とか情熱とか頑張りまでエコにしてしまう時代なんじゃないかとも思ってしまう。

自分が若い頃は率先して重い物を持つようにした。先輩に力仕事をさせる訳にはいかない。そうやって自分の身体でいろんな事を経験して物事を覚えていった。先輩たちのタバコの銘柄を覚え、好きな缶コーヒーや趣味嗜好を覚えた。ちょっとコーヒー買ってきてと言われたら好きな銘柄を渡す。タバコもアレですよね?といって買いにいく。おお、わかってんじゃんと言われる事が嬉しかったし、そんな小さな事から始めてった。仕事終わってから倉庫で機材をつないでいろいろ試してみた。そうやってわからない事を見つけて先輩をひっぱって一緒に勉強させてもらった。

今思えば、言われた事を素直に吸収できなかったこの性格がもっとどうにかなればよかったのにと後悔する。今でもこの偏屈というか頑固さをどうにかしたいと思う事がある。怒鳴られてそれを素直に実行する事が出来てたら、もう少し成長できてたかもなぁと。

若者との付き合いの中で正直我慢する事はたくさんあるものだと、自分がおっさんになってから初めて気づく。それなりに若いうちから育成にも力を入れてきたつもりだったけど、今思えば自分の後をついてきた若者は一人もいないのだから、すべて間違ってたんだということをずいぶん立ってから思い知る。W杯で惨敗した日本のような気分かもしれない。

怒るってのはものすごく責任を伴う行為である。相手の人生を下手すりゃ台無しにしてしまう可能性だってある。それだけ難しい事だから悩ましい。どうすればそれが本人のためになるのか、そしてそれが会社の財産になるのか、最終的に自分自身に返ってくるのかどうか。お互いがお互いをリスペクトし合わないとダメなようなきもする。その場所のカラーというか特性というかそういったものにハマるかどうか向き不向きみたいな物はあるんだよねやはり。

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