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生きるという事は死ぬまでにこの世に生を受けた事の意味を探す旅

マーライオン

   

酒を飲んで、ね。
2005年8月2日
俺にとって絶対に忘れられない一日になった。
正直こういう形で書くのはやめようと思っていたし、
書くことが何になるのかわからなかったから
それに俺自身どうしていいのか
さっぱりわからなくて、
結論を出すのにものすごく考えたし、無気力にもなったから
でも何らかの形にはすべきだから、そう思った。
その日の未明
俺の尊敬する先輩が亡くなった。
先輩、といっても31歳になったばかり
俺の一つ上だ。
その人と出会ったのは俺が高校3年生の進路を考えていた頃、
梅雨時の6月だった。
俺はバンド仲間のキーボードの子が入る専門学校の音響学科に
いわゆる体験入学という形で、今となっては母校のあの場所に行った。
そのときの引率があの人だった
正確に言えばさらにその一つ上の人もいて、あの人はサブとしていた。
小柄な、それでも存在感のある、大きな空気感は
その後12年間かわらなかった。
そう、12年になる。
それから何度もその体験入学には足を運び、
その学校を知るとともに、先にいろんなことを学べる、
リードするんだって、そんながむしゃらな気持ちで。
かならずあの人はいた。
そして入学後、オレも同じことをした。
体験入学の引率スタッフ。
今思えばあのときの経験が、会社の中での自分の役割、立場みたいなもんを
形成することができたんだと思う。
そしてそこからオレとあの人の上下関係が始まったんだ。
いわば引率スタッフの先輩として、いろんなことを指導してもらった。
怒られたのもそこからずっと続いてたんだな、そういや。
夏過ぎには先輩たちは引退して、オレらだけでそのスタッフを
やっていくことになったけど、いろんなことにぶつかって、悩んだ。
でもほんとにそのときの経験が今の「すべての人に頼られる自分」の
始まりだったと、今更思い出した。
オレらも後輩に引き継ぐっていうとき、後輩についてのミーティングをした。
たまたま通りがかった先生が
「なんだ、お前等もか」
そういった
あの人たちもオレらに引き継ぐときに
同じようにミーティングを開いてたのだそうだ。
そしてあの人たちがその引率スタッフのカタチというか、
スタイルというようなものを築き上げていったんだと、
そう教わった瞬間に改めてその存在の大きさに気づかされた
9月
俺もいい加減就職活動をしなきゃならない状況になった
いや、その前から一応してはいたが、本気じゃなかったし
正直9月に校内面接を受けてそのままバイト→内定→就職の
甘い誘いに乗っかって今の会社に入った訳だが。
あ、ギックリ腰やって三日寝たきりになったからというのも理由だけど
そこに行って驚いた
あの人がいた。
そういえば就職先がココだったということを会ってから思い出した。
そしてまた怒鳴られ上下関係の再スタートだ。
会社の中でもあの人の存在感は全然かわっていなかった。
もちろん入ってすぐだから、実力だとか、そういったものは
まだ無かったかもしれないが、それでも全幅の信頼を受け
何事に対してもまっすぐで、俺はいつも怒られてた。
もう10年やってる現場もその人から最初は教わった。
今じゃオレ=ソコ みたいなもんだと後輩に言われるが、
それもすべてあの人のおかげだ。
そこでもう一人尊敬できる先輩に出会えたことももちろん大きいが。
そのもう一人のひとはだいぶ前に、全然関係のない職種へ転職した。
たしか膝がよくなかったんだったと思う。事故かなにかで。
そのあとも、数々の現場で、あの人は俺に背中を見せてくれた。
怒られまくったけど、だから今の俺がある。
あの人との唯一の共通点はKOOLのソフトパックだった。
オレもずっとKOOLだが、あの人もずっとタバコを変えることはなかった。
「あんたのトコ行けば、タバコもらえるんだもんね」
それがおそらくは唯一あの人の役に立ったことだと思う。
それから俺はずっとあの人の分の予備タバコを持ち歩く癖がついた。
タバコきらしたって時はよく差し出して代金もらってた。
その当時はKOOLなんてそんじょそこらの自販機には無かったからね。
当たり前のようにあちこちで見かけるようになったのはほんと、5年くらい前だ
それから何年かして、あの人は異動した
さらに上を目指し、またオレらの部署とつながりを強くするために。
そしてそこで得たものをフィードバックしてやるって。
それから部署は違えど、飲むこともあったり、
事務所に行けば顔会わせたりして、そのたんびに怒られてた気がする
俺は俺なりに自分が教わったこと、得たことを今も同じ場所で
あの人のように引き継いでいこうと、それだけだった。
あるときあのひとの部署の方の仕事に参加することになって、
俺もそれなりの経験を積んでたから、
正直成長した自分を見せたいってのもあったかもしんねぇ。
全部新潟でくだけ散ったけどね。
何年経ってもやっぱり怒鳴られ関係はかわってなかった。
哀れなことにかばってもらうことすらあった
あの人はずっとずっと先を行ってたんだ
2週間ずっと泊まり込みで、新潟の大きなスキー場での仕事は
ものすげーつらかったけど、あれもまた経験してなかったら
全然違うと思った。
そのとき他にいたその部署の先輩たちもすげぇ人達だったから
全員に怒鳴られて、でも全員にいろんなこと教えてもらって。
その年の夏、前歴があったから指名をもらえたのに
俺は骨折して、そこから転げ落ちていった。
ま、その代わりに俺の後輩が行ってくれて、
助かったのも有るし、そいつのためにもなったと今では思うけどね。
あの人と仕事したのは、そのあと小さい仕事をちょこちょこしたぐらいだったけど
出くわせばまた怒鳴られる関係はあんまかわってなかった。
またしばらくして
あの人が病気になったって聴いた。
信じなかった。
心の病だって聴いて
絶対に信じなかった。
あの人がまた戻ってきた時、かなり丸くなって
まぁその病のことに関してはまったく触れずに
違った形でまた一緒の現場で仕事ができるようになって
これがしばらく続くんだろうなって、思ってた
何年かは続いたけど
それもつい先日終わった。
FUJI ROCK FESTIVAL
記念すべき第一回
本当に富士山でやったとき
初日に台風が直撃して散々なライブになり
レッチリが暴れて、送迎のバスが山道ですれ違えず、
バスのなかに1時間以上缶詰にされて
俺の同期二人が体調崩しても
あなたは元気だった
その翌朝、車中泊した朝
激痛とともに目覚めたオレに気づき、
真っ先に心配してくれて
俺の動機が走っていったから、電話しにいったのかと思ったら
トイレ行ってただけだって聴いて、あんたはやっぱり怒鳴った
もういい、アタシが行く
そういって走って公衆電話へ救急車を呼びにいってくれたとき
あなたの背中は本当に大きかった
すぐに戻ってきて「テレホンカード忘れた!!」
そういってまた走り去った瞬間にすぐに笑える背中にかわりました。
公衆電話で救急車は赤いボタンを押せば呼べるんですよ
てか、携帯でも呼べたんじゃないかと思います。
でも俺はあなたが救急車に乗りました。
病院に担ぎ込まれて、気を失ったりもし
帰りの車も嫌な顔せず、ライブ二日目が見れなくなって
謝ったときも、いいよいいよ、そういってくれました
途中のインターで薬も効いていたから
食事して巨峰ソフトクリーム食べてたときに、
またオレの尿管結石が復活して、血圧を下げる座薬だから
時間を置いて使用しなきゃ死ぬって言われていても使おうとしたオレを
必死に止めてくれましたね。
それでも振り切って中身をあけたオレを待っていたのは
車中にあったから解けて使えない座薬。
それをみてすぐに、あなたは今度は高速道路用の
緊急電話へ走ってくれました
さすがにテレカは持っていかなかったと思います。
すぐに救急車でその日二度目の搬送、入院も勧められたけど
断って会社近くの病院で検査して、さらに俺の部屋まで
送ってくれました。
あの出来事は本当に感謝の気持ちしかありませんが、
よくネタとして笑い話にさせてもらってました
すいません
でも今後も使います。許してください
あの人のこと思い出せばだすほど、俺は怒られっぱなしで。
でも
怒るっていう行為はものすごく責任のある行為で
相手の人生を背負うぐらい重みのあるもんだって。
もっともっと上の大先輩から教わりました。
だからどんなに怒鳴られても感謝の気持ちしかありません
訃報を聞いた夜
真っ先に現場にタバコとどけました。
もちろん火もつけました
ちゃんと吸えましたか?
それが最後の予備タバコです。
もうあなたの分を持ち歩く必要がなくなっちゃいました
その後、あのバーに行きました
ラムコーク、用意してたのに
なんで飲まなかったんですか?
KOOLも火をつけておいたのに、
すぐ消しましたね?
枝豆旨かったから、そっちの方がよかったですか
も一人は「オレは全然酔えない」って言いながら
バーボンがばがば飲んでましたけど。
オレはおかげで悪酔いして、何年か振りにマーライオンのように
吐いてましたよ。
自分でびっくりしましたけど
ああ、バーボンやたら飲んでた人、1000円しか持ってなかったんで
オレが全額払いましたけどね。
許してやってください
通夜と葬式には仕事で行けませんでした。
無理にシフト変更して周りに迷惑かけてまで出席したら
また怒られると思ったんで。
それでよかったですよね?
ずっと公私混同を嫌ってましたから
仕事とプライベートは切り離せって、よく言ってましたよね
だから俺もずっとそうしてきました
でもプライベートも仕事も
お互いがうまくいってこそ、もう片方もうまくいくもんだと思います、今は
公私混同は絶対にやっちゃならんけど。
だから俺はそこだけはどうしても従えてなかったのかもしれません
でも俺は感謝してます
今思えば12年間分、何一つ恩返しもできていないけど
感謝することしか今はもうできません
ずるいですよ
俺が今こうしてココにいて、今の立場、今の力量があるのも
すべてあなたのおかげだと思ってます。
それだけは一生忘れません。
高3の6月
あなたに出会ったおかげで今の俺があります。
もう12年も前のことなんですね
まだよく、今回のことに関しては
完全に理解していないし、納得もしていません
最期まで納得のいかない、でもあなたらしい、
そんな死に方されたんじゃ。
でもね、周りの人が「亡くなったんだって?」って聴いてくるんです
ほんとにたくさんの人たちが聴いてくるんです
だからホントのことみたいですよ
それでも仕事はしなきゃって
また怒鳴られるからって
シフト書こうとしましたけど
文字が読めないんですよ
あげくシフト表濡らしちまいまして
限界でした
ダメです
涙腺弱くなったなんて、オレも年取ったんですかね
もっともっといろんなこと教えてほしかったし、
恩返しもしたかった
でももう二度と追いつけない背中になったんですね
いや、やっぱりテレカ探してる背中なのかもしんねーなぁ
俺も遠からず、そっち行くと思います。
そんときゃかならず、KOOL届けますから
待っててください

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